ストレス解消法

いいお友達で済ませない


離婚した芸能人のインタビューでよく聞かれるのが、
「私たちは離婚しても、いいお友達でいます。」です。
私は、この台詞を聞くと違和感を覚えます。
「離婚をしてもいいお友達でいられるって、大人だなぁ。」とか、
「ただ、結婚を辞めるってことだけで仲良しではあるのだなぁ。」とか、
好意的に受け取る他に何か納得のいかないものが転がります。
これは一体、何だろうと思っていたら何てことはありません。
体よく、相手を傷つけずにふる時に使われる定番の台詞、
「私たち、“いいお友達”でいましょう。」と響きが重なったのです。
その途端、私は思います。
「わー。二人は、いいお友達を超えなかったってことかい?」と。(TT_TT)

でも、私はあちこちに顔の売れている、
自分を魅せる職業を担っている人々に文句をつける気はありません。
そうでも言わないと・・・ってところはあるでしょうからね。
ただ、異性に自分を理解して貰いたいと本気で願う、
異性との分かち合いを目指す人々には多少、ここで率直に物を申してみたいと思います。
私は、いいお友達で済ませることのできた恋愛には、
いささか愛情が欠けていたのではないかと思います。

人が相手や自分を理解するというのは痛みを伴う過程ですから、むしろ、
それが文字通りにいいお友達で済んでしまった時にはそれ以上、自分にも、
相手にも深入りすることのなかった現実を示しているのではないでしょうか。

人は、傷つけ合うこともあって初めて自分の脆い面にも直面します。
そして、この時の動揺が一切の下手な脚色を経ることなく、
一番、この脆さの特色を相手に向かってさらけ出すのです。
当然のことながら、心の準備のできてない者は相手の動揺には極端に疎いか、
その域を脱していればこそ相手の動揺に動揺することもありましょう。
ここには自然と衝突も生じるわけですが、これを繰り返すうちにはやがて、
[相手を通した自分の受容]と[自分を通した相手の受容]とを獲得していくものです。

何故ならば、近しく、向かい合う者が、何と言っても自分自身の鏡であるためです。
純粋な二者間の摩擦こそが、独りごちた自己満足に留まる理解や受容を越え、
現実場面での自分と相手とを精神的に育成してゆく
のです。

大概、いいお友達で済んでしまう関係性ではこの事態への突入が嫌悪され、
拒絶の段階に留まる傾向にこそ長けていますから、そこにはもちろん、
自分に対する理解も、他者に対する理解の獲得まで浅薄なところに留まる
のです。
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