男尊女卑もアッシーも♪かつて女性は男尊女卑の漂う風土の下に非常に苦しんだわけですが、 ![]() 「アッシー」「メッシー」等と名づけられた上に虐げられる、 極端な構図も見られるようになりました。 特定のある女性に対する車での送迎係がアッシー、 後者は食事(飯,メシ)を奢る役割を意味します。 主にはバブル時代に見られた男女の光景でしたが、 この折、特定の知人男性が自分に気のあることに気をよくした、 一部の女性たちは彼らを堂々と利用してのけたのです。 しかし、彼女たちに貢ぐ者を維持したのはバブルという好景気下の収入と、 いつかは自分に応えてくれると願わずにはいられない、 彼らの中の女性に対する期待と適度な無知でした。 とは言え、あしらわれる回数も重なった上に足元の収入も悪化すれば、 当然のことながら、人間は現実を自覚せざるを得なくなります。 自分に貢げなくなった役割不足の男性には女性も、 自らの態度を豹変させて冷たくあしらったでしょうし、ここまで来れば、 男性も、「何と酷い人だ。」と女性に思い至らざるを得なかったことでしょう。 もちろん、私は、全ての男性や女性がこの構図をとったとは思いません。 その一方で、このアッシーやメッシーとして利用された、 男性たちの登場した時期を経て結婚意欲を失う、 草食的な男性が増加したとも言われているのは現実です。 この点からすると現実の女性に拗ねてしまった男性が、その後、 打って変わって2次元の女性(オタク趣味)に入れ込んでしまう、 こちらの姿がブームになっているのもわからなくはないかな・・・??? ただ、男性たちをアッシーやメッシー扱いした女性たちも、 彼女の親世代に男尊女卑の名残りを見ているとするならば、例えば、 それはそれで一種の復讐劇でもあったのではないかとも思います。 彼女たちの目にはどこかイエ制度の中で圧される母親の姿や、 男らしさの名の下に口を利けずに存在感を消すか、 威圧的になるしかない父親等が映り、 ――もちろん、それが全てではないにしても、――― 「私は、お母さんのようにはならないわ!」なんて女性もいたはずです。 しかも、突き詰めるならば彼女たちに男性の侍る姿とはむしろ、 抑圧されがちだった、彼女の親世代にあたるある種の女性たちが夢見た、 一つの潜在的な理想の形でもあったのではないでしょうか?? そして、これを見事に娘たちが体現したわけです。 ただし、彼女たちが実際に侍ったのはこれまた新世代の男性であって、 問題は、彼ら自身が古い時代の男性たちそのものでは無かったことです。 となれば、彼らが、いわれのない虐待下にあったともとれるのです。 こうして、元は純粋無垢な存在である点で共通していた男女が、 それぞれの育成過程を通して後に傷つけ合いもするのです。 よくよく考えてみれば、時代の被害者でもあり、傷ついた、 自分を持つのはどちらにも同じことなのですけれどね。 もちろん、人間が親しくなるのに傷つけ合うのは必須過程でもあるのですが、 それでもそろそろ、お互いを労わり合っていくための何らかのきっかけが、 男女の間に普遍的な広がりを持って行きはしないかと考えるのが私です。 もっとも、世の中の人々の顔を全て同じ色に塗り替えることが、 この世の理想であるとも思ってもいないわけですが・・。 しかし、こんなことを願ってしまうのも、私自身は、 夫という男性と分かち合っていこうとしているからです。私は、 もっともっと、男女が共に話し合えてもいいんじゃないかって思っています。 AboutSite
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